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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2009年06月13日

アテルイ伝説。(ハルマゲドン篇)

更にさらに…前日記から続く。(引っ張るな〜、おい…)

この様に、体制側(大和朝廷、天皇家。)に都合の悪い情報は隠蔽され、
捩じ曲げられて教育(洗脳)されて来た訳だ。
(…先ず、この天皇制の洗脳状態から脱せねばならない。)

この為、蝦夷・縄文は意図的に無視され、
阿廷流為はじめ蝦夷達は大和朝廷(体制側)からは
単に政治的理由で外敵として扱われ、【鬼(悪魔)】とされて来たのである。



この蝦夷や縄文を探求、復活を目論む者も又…
体制側から見たら悪魔に見える事だろう。
(…だから我輩も最初から悪魔だ、って言ってんぢゃんwww/笑)


という訳で今日…

話のキッカケを頂いた悪魔…

もとい、さとげん様のバンド、【cristal or nite】も出演なさる
ライヴイベント【メタソル】に来てる訳だ。(爆)

新潟JUNK BOXに。


多分、話のキッカケになったアルバム【アテルイ】に収録された曲もやってくれる筈♪



…って、結局コレがオチかwww



ちと書き忘れてたが…

【文字】。コレを呪術に利用した分りやすい例が、神社の御札(大麻)である。

アレは、只の紙に、神の名を漢字で書いてあるだけ。(←勿論、御札を作る際は、それなりの呪術的手順を踏む必要が有るが。)

その【文字を書いた】御札で効力を発揮させようとしているのだ。

誠に(土偶や紋様に比較して)簡便だが、
それ故に文字さえ覚えれば手軽に誰でも乱用できてしまう負の面も有る。
その点、縄文人は紋様や色彩(黒、赤などの染料)を使い、乱用を避けて居る点は賢明だ。


又、当時の蝦夷の中でも、牡鹿(←石巻の魔鬼山から近い場所)の道嶋一族の様に大和朝廷側に仕える者、
砦麻呂の様に大和⇔蝦夷の軍事バランスの境界で立ち回る者、
阿廷流為の様に断固として戦う者…

色々様々で、構図としては混迷した中東のイラク国内状勢に類似している。
(イラクも国内で同じイスラム教ながら、部族によってシーア派、スンニ派、クルド人にベドウィン…親米から強烈な反米まで。)


そこに大量破壊兵器だ対テロ戦争だと
言い掛かりを付けて(ついでに石油欲しさに)
政治的理由でイラクに武力侵攻したアメリカの姿も、

蝦夷の国に武力侵攻した大和朝廷の姿とダブる。

…古今、洋の東西を問わず、
所詮、人間…特に体制側の考える事など
千年経っても大して変わっていない、って事だな。
  


Posted by 黒猫伯爵 at 17:12Comments(1)

2009年06月13日

アテルイ伝説。(古代東北幻魔大戦篇)

さらに前の日記から続く。

蝦夷(えみし)は縄文人か?
という問いにはYESともNOとも言える。

縄文人と一口に言っても、【共通の文化を持った多民族集団】と考えた方が良いだろう。

その内の一部の末裔で有る事は間違いないだろうが…
アイヌとも完全に同じとは言えない。

さて…

蝦夷側の直接の記録文献は無い。(記録は口伝・伝承のみ)
…というより文字を使う必要が無い文化だったと思われる。

【文字】は情報を記録する手段であると同時に【呪い】の手段でもある。(以前の日記【呪いの小箱】でも書いたが)

一説に依れば、大和朝廷が【漢字】を導入した理由のひとつには、
朝鮮半島で百済や高句李と戦う為(←敵国調伏の呪いの為)とも言われる。

実際、坂上田村麻麿も蝦夷との戦いに於いて『日本中央』と刻んだ石を埋める呪術を行ってる。(コレも何度も書いたが)

一方、蝦夷側は縄文時代から続く、文字によらない呪術体系が存在した。
…つまり、蝦夷と大和朝廷との戦いは、単に軍事的衝突に止どまらず。

呪術戦争でも有り、(なんという大スペクタクル!正に映画、幻魔大戦を彷彿とさせる!/爆笑)
文化同士の衝突でも有り、稲作中心経済と狩猟・採取・栽培の複合柔軟経済の衝突でもあった。

話が逸れた。

文字のもう片方の側面、記録保存や情報伝達に於いても、他の手段で事足りた。

民話の語り部が、数百の物語を一字一句間違わず記憶している様に、口伝での記録保存は可能だし、
オーストラリアの先住民アボリジニも、文字を持たず、情報伝達はもっぱら絵・図形による。

その点からも、縄文時代の図形・模様には情報が含まれてる可能性が高く、
それを解読する事によって、日本の(世界の)歴史が覆る可能性有る。
(まるで映画ダヴィンチ・コードや天使と悪魔…/笑)

一方、大和朝廷側は、その情報が解読されては困るのである。

初代天皇を起源とした暦【皇紀】で今年は2669年に当る。
(この年代は、日本に朝鮮半島から弥生人が渡って来た時期と一致する。)

日本の支配者の起源よりも古い存在(縄文人)を認めたら、
支配者としての正当性が揺らぎ、誠に都合が悪いからだ。
(だから日本神話では『国譲り』という荒唐無稽な辻褄合わせの隠蔽工作をしてる。)

特に明治〜第二次大戦敗戦までの期間の『天皇は現人神、日本は単一民族』という誤った教育下に於いては。


…この話、もーちょい続きます。
  


Posted by 黒猫伯爵 at 16:57Comments(0)

2009年06月13日

アテルイ伝説。(帝都空爆篇)

さて、昨日の日記の続き。

では、阿廷流為が居た当時の状勢を分析しよう。

我が宮城県北エリア・大崎平野中央部では、涌谷から砂金が産出されて奈良(平城京)へ運ばれ、
同時に木戸瓦窯遺跡から多賀城へ屋根瓦が運ばれるなど、
少なくとも蝦夷も(孚囚として)大和朝廷の影響下にあり軍事的には安定していたと思われる。

又、色麻町に有った瓦窯…
その地名も四釜地区からも瓦が多賀城及び加美方面へ運ばれていた様だが、
僅か2〜30km離れた地点は蝦夷の支配下(鳴子の鬼首、石巻の魔鬼山…現在の牧山。)で、
しばしば激しい戦闘が行われた伝承が残ってる。

朝廷側の記録でも田夷・山夷等の表記が有り、場所・部族での違いや、年代、朝廷側担当者によって状況にかなり変動が見られる。
(現在のイラク国内の状勢に似てる。)

その涌谷や木戸瓦窯遺跡から極く近い場所、
恵比須田遺跡から縄文時代の遮光器土偶が発見されている。

又、葬儀に於いても極く近年まで、縄文時代が起源と思われる風習が残っていた。(円形の場所に棺を安置して参列者が左回りをする風習。東北にしか無い。)

この、恵比須→夷(えびす)、つまり他民族の意味。

つまり大和朝廷の影響下では有ったが、文化を徹底的に破壊された…という訳でも無いという事だ。

因みに、七福神の恵比寿様…
コレは土着の神様とされるが…要は縄文時代のアラハバキが変化して取り込まれたモノだ。

恵比寿様は商売・交易の神様である事からして、
当時の蝦夷は幅広く交易も行っており、大和側との交易(一応、密貿易?/笑)が有ったのは容易に想像される。

…話が逸れた。

しかし、蝦夷と大和朝廷側が平和共存していたのか?

否、である!!

蝦夷側から、税(年貢)を納めるから、(大和人と同等の)平民として扱ってくれ…
との申し出が有った事も記録されているが、朝廷側から却下されている。

つまり、蝦夷側は税を納めるだけの生産余力が有り、場合によっては朝廷の支配下に入っても良いとさえ考えていたフシが有る。

…にも関わらず、朝廷側は固くなまでに拒否し、
平民より身分の低い孚囚、又は【夷敵】、即ち征服すべき他民族…としてしか対応しなかった…
という事である。

勿論、内裏と多賀城間には相当な距離が有り、
朝廷との連絡・意思疎通も決して充分とは言い難く、
在多賀城の将軍始め、役人の裁量が大きく物を言い、
それ故の不正も多かっただろう。


阿廷流為が戦ったのは、それらの事に対する抵抗であり、
民族自決、自主対等の為の戦いであった訳だ。

しかも、自ら開戦に踏切ったというより、
朝廷側の対応から止む無く始めさせられたのである。
  


Posted by 黒猫伯爵 at 12:20Comments(0)