2011年08月11日

A話。(奥州・陰陽呪術闘争篇)

前日記から日数が開いてしまったが…前日記の続き。

さて…
古代の東日流国から奥州街道(現・国道4号)に出て、盛岡方向に暫く行くと。

長い坂の頂上に有るのが『日本中央の碑』。

征夷将軍・坂上田村磨呂が、呪術を施して土中に埋めた…と伝えられている石碑だ。
(以前も書いたが、呪いの函を土中に埋める…即ち『吉』という呪術の考え方だ)

この石碑が建つ位置…

坂上田村磨呂と戦っていた日高見国と東日流国の物流・連絡ルートを見事に寸断する位置だ。

む、む、むぅ。やるなぁ。流石、田村磨呂。

東日流国の兵力が、日高見国の援軍に回らぬ様に、
との意味(呪術的な)も有ろうが…
峠の頂上でも有り、『国境線の標識』の意味も有ったろう。

村や国の境に、石碑や木柱を建てる風習は、東アジアに広く見られる。
(ポリネシアのトーテムポールや、朝鮮半島のチャンシン等)

実際、田村磨呂の蝦夷平定後。
一時的に稲作と大和朝廷の城柵の北限が、岩手県北部の二戸城まで北上するものの、
結局は盛岡以南の徳丹城(矢巾町)、更には志波城(紫和町)まで後退している。

当時の稲作技術や品種では、この辺り(盛岡〜八幡平〜能代を結ぶライン)が稲作北限の限界線だったと考えられている。

一応の国境線を『日本中央の碑』が有る青森県東北町に引いたものの、
実質的な支配地域(稲作経済支配)は盛岡近郊止まりで、その北…
中山峠以北は、或る種の軍事緩衝地帯、バッファゾーンだったかも知れない。

つまり、この時代…8〜9世紀から、12世紀の中世に掛けても、
青森は、大和朝廷・中央政府から見れば地続きながら、『外国』だったのだ。


…この『日本中央の碑』。
現在は、囲いの建物で覆われいるのだが…

その建物が『電力移出県補助金』…
つまり、東京などへの電力供給の為の発電所立地(具体的に言うなら、東通原発)の為の補助金で建てられている処に、
中央支配体制の底意地の悪い悪意を感じるなぁ…(苦笑)

というのも、この『日本中央の碑』に限らず、
坂上田村磨呂や、慈覚大師所縁の寺社には、もうひとつ。

当時の都(京都)から見て北東方向…『鬼門』に位置し、
その『鬼門封じ』の意味も有った。

実は、8世紀は災害が多く、当時の大和人は原因を『怨霊(鬼)』と考えてた。

従って、都の守護安寧を維持する為に、東北を侵略した側面も有る。


…この話、更に続きます。
  


Posted by 黒猫伯爵 at 12:10Comments(0)