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2013年09月09日

愛すれど、独占せず。

この処。立て続けに友人の皆様が「愛」について日記を書かれてるな〜。(やっぱり秋だからかしら?笑)

…なので我輩も便乗w←


現代の愛は、一夫一婦制に基づいた「世帯」の概念に縛られ過ぎてるんじゃ無かろうか?
…古代人は、もっと愛に寛容で自由だったんじゃ無いかと思ってしまう。


縄文時代の竪穴式住居をみてみると。
一戸が2〜7人程度の居住人数。
…決して大きな建物を建てる技術が無かった訳では無い。
数十人も寝れる様な大型の掘立式建物も建てていたのだ。(これはおそらく、村の共有・共同施設だったろう。)

にも関わらず、一戸当たりの居住人数が少なく、
一戸に一家・一血族が全員住んでたとは考えられない。

一血族が複数の住居に分かれて住んでた…というよりも。
現代の「家」の概念とは異なり、住居そのものが村社会での「役割別」にあてがわれてたのかも知れない。

例えば、赤ん坊の居る夫妻は3人用住居、狩猟Aチームは、チームのメンバー5〜6人が一緒に寝れる住居…という様に。

これはこれで、実に合理的な暮らし方だ。
…現代の様に、いくら家族だからと言っても、夜泣きする赤ん坊と働いてる成人と要介護の老人が、ひとつ屋根の下に暮らしてる方が、逆に不都合が多い。(苦笑)

結婚も、おそらく子育ての一時期を除けば、同居では無く別居婚の様な形だったろう。
…従って、子育ても一組の夫婦や世帯で行うのでは無く、
子供は村の「共有財産」として、村の社会全体で育てていたのだろう。
(この点は現代社会よりも優れてたと思う。)

従って、結婚という概念も、現代の様な厳格な物では無く。
どちらかと言えばフリーな関係に近かったと思うし、それが故に「夜這い」も生活の中に問題無く内包されて来たのだろう。

…その結果として生まれて来た赤ん坊も、誰の子供であろうが村の共有財産として、分け隔て無く皆で育てられたのだから。

此処で勘違いしてはならぬ点は。
…幾らフリーな男女関係でも、一方的な事はしなかった・出来なかった、という事だ。
何故なら、相手の人間も、村社会の役割の一翼を担う「共有財産」であり尊重される。
決して1人が独占私有出来る存在では無いからだ。
(同時に、そこには1人1人が村の役割を担ってるという個人の自立感と共有・公益概念が必要。)


こういった古代の生活様式を「野蛮だ」とは言えないだろう。


この古代の男女関係を野蛮だとして、厳格な一夫一婦制、「世帯」に押し込めて来たのがカトリックでは無いかと思う。

この「世帯」化によって、女性は「社会の共有財産」から夫の「私有財産」に変化してしまった。
父権による財産の「独占」。


現代社会の諸問題は、この父権による財産の「独占」を許してしまってる点が根本的な処に有る。
…富の独占による、貧富の格差。権力独占による不満。
一部の人間に「独占」されるが故に、同時に「妬み」も生まれるという不幸。
独占された富を強制的に分配しようとすると、強大な権限が必要で、結局その権限・権力も次第に独占化される。


そう考えると、やはりカトリックの考え方では駄目なんじゃ無いかと。

…キリスト教が悪いと言う訳では無いよ。

多分、キリスト本人は逆に、「独占」に対して闘ってたと思う。
…当時の支配者による富や権力の「独占」を打破する為に、世界は神の物という概念を定着させようとした。(一部の特権者の所有物では無い、と。)

それが時代を経るに従って、一夫多妻制の独占を許さない→一夫一婦制になり、
実に皮肉な事だが、一夫一婦制が夫による妻の「独占」に繋がる・父権の強大化・独占化に繋がってしまったのでは無いか。
…この辺は。厳格な「世帯」という形にした方が、支配者側・権力者側からしてみたら都合が良い・支配し易いという側面も有ったろう。


独占を許さない、という点では。
イスラム世界では富む者から貧しい者への「喜捨」という習慣が有るし、
仏教で言えば、欲を捨て去る(=独占しない)という面で、
実は、キリストもマホメットもブッタも、やり方は違えど同じ事を目指してたのかも知れない。




愛すれど、独占せず。

これが一番かな〜


「独占しない」という事を宣言すると、物凄く気分的に楽になるよ〜(笑)

お金も物も、そして愛も独占しない。
他人を妬んだり恨んだりする必要も無くなる。

ま、金銭的に貧乏な事は変わらないけど。(苦笑)
  


Posted by 黒猫伯爵 at 10:55Comments(0)