スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by だてBLOG運営事務局 at

2013年09月28日

会津藩・若松城と庄内藩・鶴ヶ岡城、蝦夷館。(幕末激闘篇)

先日の現場、会津アピオ&鶴岡こぴあに来て下さった皆様、有り難う御座いました★

双方とも城下町。
…という事で、今回は現場入りの前に、チャリで町歩きをした訳で御座います。
今回は、その話を中心に進めて行こうと思う。



まず、会津若松。

某大河ドラマの影響ですかね、あちこちに八重の桜のアレが…(苦笑)
まぁ、盛り上がってるのは、お役所と商工会だけという(苦笑)、よくあるパターンみたいですが←

…意外に赤線地帯(笑)も有るな。やはり会津盆地一円の中心地で、温泉町も近い故か。
それと商店街のアーケードが他都市に比べても幅が広い。冬場の積雪を考慮してか?

そして肝心の、お城!!

一般的には「鶴ヶ城」と呼ばれているが、正確には「若松城」。
幕末の戊辰戦争で籠城戦になった城だから堅固な山城だと思ってたが…
実際に行ってみたら、実は背後に山を抱えているものの、城郭の主要部分は平地に有る平城だったのね。意外。

この平城に籠る籠城戦…というのは、戦略的には大きなミスだったと思う。
…むしろ若松城を防壁とし、背後の小田山に本陣を置き、平地での遅滞作戦・山地での遊撃ゲリラ作戦を展開すれば、
会津軍(旧幕府軍)側が、遥かに有利に戦えた筈。

…我輩だったら城下にトラップを仕込み、進軍して来た新政府軍もろとも若松城に火を放って小田山に退却し、その後ゲリラ戦…という選択肢を選ぶね。
しかも敵の新政府軍とは言え、兵員は各藩の寄せ集め。謀略工作で分断・自滅せしめる事も出来たかも知れぬ。
(通信手段の限られた当時では、適切な作戦は難しかったかも知れぬが。)
…敵の1/3は火力で減じ、1/3を情報戦で無力化すれば敵は自滅する、とは旧ソ連の軍事教書だ。

その場合でも、新政府軍との兵力差から考えて、越冬し翌春まで戦闘を継続出来たかは疑問だが、
少なくとも、あと二ヶ月。初雪の降る11月中旬までは確実に戦闘を継続出来たろうし、
寒冷地に対応出来ない新政府軍に対して、降雪のタイミングで休戦協定を結ぶ事も出来たのでは無いだろうか?

…実際には、山側に本陣を置いてゲリラ戦をやる場合でも、
食料や弾薬、居住区を事前に山側に用意して置く必要が有り、
戊辰戦争の経過を見ると、新政府軍の進攻スピードが速く、そういった準備の時間的余裕が無かった事も読み取れるが…


現実の史実では…

会津軍は平地の若松城に籠ってしまい、逆に背後の小田山は新政府軍に押さえられ、そこから大砲の砲弾を撃ち込まれてしまってる。
(「高所を取る」という軍事戦略の基本を会津軍は失念した。)
しかも一ヶ所に籠った事で、新政府軍の火力が集中して撃ち込まれた。
(これが山中のゲリラ戦ならば、新政府軍の火力も分散せざるを得ず、大砲を有効に使えなかったろう。)


この後。
戦線が北海道まで北上した函館戦線でも、旧幕府軍側が同じ様な誤ちを冒してしまってる。
…五稜郭に籠り、背後の箱館山に新政府軍の布陣を許してしまった事が、自らの首を絞めた。

但し、函館戦線の場合は…
旧幕府軍側とて、地理に不案内でアイヌ民衆の協力も得られず、
しかも格段に寒い北海道で山中に布陣してのゲリラ戦を続ける…というのは、いかに有利な戦法と言えども尚更、選択し難かったろうが…
(榎本は海軍だし、新撰組の土方とて温暖な関東の出身。)



…どうも、この辺は。
旧幕府軍側は「侍の戦い方」(正面の戦いを是とし、ゲリラ戦を良しとしない風潮)に固執し、戦術の柔軟性を欠いた感じがする。

そして何よりも!
戦争終結の方法、出口戦略無しで、いたずらに犠牲者ばかり増やした悲劇でも有る。

…これは現代の日本政府にまで続いてる。




ちと長くなったので、続きは次の日記で!←(まだ会津の話しか書いてねぇぇぇ!!)  


Posted by 黒猫伯爵 at 06:19Comments(0)