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2014年08月05日

東北魔界紀行・出羽山伏編その4、『温泉神社と熊野神社』

さてさて、間が開いてしまったが先日の続き。

もう1ヶ所、念珠ヶ関から北上する事、車で約10分弱。
温海温泉の中に有る神社だ。

先ずは『温泉神社』。

現在は温海温泉の朝市の広場に新しく神社が建てられてているが、
元は別の場所に有り、その起源は諸説有るらしい。
…大同年間(807年)創建という説に従えば、これまた弘法大師が訪れた年代とピタリ一致するが、
おそらくそれ以前から祀られていたのでは無いか。

吹き出る湯を祀る…という事は。
蜂子皇子が湯殿山も含めた出羽三山を開く以前は、
むしろ此処が湯殿山権現…『旧・湯殿山神社』だった可能性も否定出来ない。



そこから歩いてすぐの場所に『熊野神社』が有る。
…由来に依れば、白鳳元年(1254年)、役の小角の神託により創建された…と有るが。

この由来書きはおかしい。
役の小角と言えば、700年代の人物だ。
これは、役の小角では無く、役の行者と書くべき処では無いか??

或いは、本当に役の小角が創建に関わっているので有れば、年代の記録が間違っている。

どっちなのだろう??


…ただ少なくとも。
この場所もやはり、温海岳頂上に本殿が有り、
今居る麓に遥拝殿が有る形式。
つまり山体そのものが御神体で、山伏が修行の為に行き来したであろう事は間違いない。

しかも、目の前を温海川が流れている……という事は。

おそらく、この温海川を『三途の川』に見立てて、
対岸から温海川を越えて(=三途の川、即ち『死』)→熊野神社境内に入る(=死後の世界、仏の世界)という意味を持たせていたのだろう。

つまり修験者とは、現世・今生と死後の世界・仏の世界を、生きながらに行き来する者。
(そういう意味では、死者の霊の代弁者である『イタコ』や、生きながら土中入定する『即身仏』と概念的には近いかも知れない。)

そして熊野神社が有る山こそが、死者の霊が至る『霊場』であり、仏の世界………という概念の『祖霊信仰』。

縄文時代から続く『祖霊信仰』を色濃く反映しているのでは無いか。



此処で一息。



実はこの熊野神社。

バラ園が併設されていて、無料で色々なバラを愛でる事が出来る。
それ故、何回も訪れてる場所なのだが…

今回改めて、境内を詳しく回ってみると。

このバラ園は、元々『奉納相撲』をする場所で、現在は円形の噴水が有る場所に昔は土俵が設えて有ったそうな。
又、バラが植えられて居る段々畑は、昔はその観客席。

うーん、何故、奉納相撲が廃れてしまったのだろう。

それにしても、『相撲は神事』だったというのが良く分かる。
…余談だが『天狗の技比べ』という伝承も残ってる地方が有り、それを描いた図も奉納されてる寺も有る。

力士と天狗が、山伏という点で一致するとは。(笑)


奥の方には登山口(昔は山伏が歩いた??)も有る。

半ば朽ちた鳥居(山中とは言え、海から近く塩分による腐食が早い様だ。)が幾つも並んでる奥には、幾多もの墓石。
…地域住民の墓地だ。
墓石は他所と変わらないが、やはり神社の境内に墓地が有り、仏像も祀られているなど、
神仏習合時代の形態を残している。



境内には他にも石碑が幾つか建ってて、松尾芭蕉を記念する物、植林事業の功績を伝える物、戦没者を慰霊する物…


その中で、驚くべき石碑が有った!!

『 熊 澤 大 人 嘉 碑 』

……!!!

熊澤ァァァ!?Σ( ̄□ ̄;)

真っ先に頭に浮かんだのは、戦前に『南朝の後胤』を名乗った熊澤寛道…俗に『熊澤天皇』と呼ばれる人物だ。

この石碑で讃えられてる人物と、熊澤天皇は全くの別人と思われるが……少なくとも同姓であり、神社に関係すると言う点で一致する。

尚、この石碑に彫られた文字は、充分に読み取れ無かった。
(石碑自体の高さも有り、上の方の文字が見えない。)

……くっ!!こりゃー熊野神社の歴史をもっと勉強して出直さにゃ……

読み取れた部分から分かった事は、此処で顕彰されている熊澤氏とは。
…熊野神社の司教として、近代に於いて熊野神社(全国の熊野神社系列全体)の再興に尽力し、多大な貢献をした人物らしい。

それだけ、多くの人達に慕われ、神社界・神道に影響力を持った人物。

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Posted by 黒猫伯爵 at 06:52Comments(0)