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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2014年08月15日

英霊に敬礼。(-_-)ゞ

終戦の日。

総ての戦死された方々に黙祷…
深く敬礼…(-_-)ゞ

画像は山形県鶴岡市由良に有る白山島…白山神社境内に有る慰霊碑。
(靖国神社なんぞに合祀する必要は無い。…この様に地域の氏神様に祀るべきでは無いか??)

実は我輩の爺さんも海軍の駆逐艦乗り。
(『駆逐艦・秋風』だったかな??大正時代建造の旧式な峰風級の駆逐艦らしい。その艦名入りの、お盆を実家で一度だけ目にした事が有る。)
幸いにして爺さんは戦死を免れたが、我輩が生まれる以前に病気で亡くなったので、戦争の話は、只のひとつも聞く事は出来なかった。


我輩の田舎は、大戦末期に、たまに艦載機が飛んできて機銃掃射する位なモンで、
殆ど被害は無かったらしい。


とはいえ、同じ宮城県でも、仙台は大空襲に晒されたし、
船岡に有った『船岡海軍工廠』(現在の自衛隊・船岡駐屯地)は随分と空襲に晒されたらしい。
(岩手の釜石製鉄所は、更に艦砲射撃も食らって酷い有り様だったそうだ。)

…今は船岡公園として桜の名所だが、戦時中は船岡山に36口径長、12・7センチ連装高角砲が2基、対空砲として設置されてた様だ。
(当時の海軍の標準的な対空砲。重巡以上の艦船にも搭載された。但し、当時は軍事機密として一般民衆には殆ど知らされなかった様だ。)

しかもその対空砲の設置・陣地造営には、当時強制連行された中国人・朝鮮人が使役され、何人かの死人も出たそうな。
…その為か、戦後暫くの間。
『ひとだま』の目撃や、幽霊の目撃談に事欠かなかったらしい。


同様に大戦末期。

女川湾に在泊中の艦船もも、連合軍の艦載機の空襲に晒され、
これはアメリカ海軍のみならず、カナダ海軍の戦闘機も空襲に参加している。
…その空襲に参加し、在地の日本軍の対空砲火で撃墜され戦死し、後にビクトリア勲章を授けられたカナダ人大尉のパイロットの慰霊碑も女川町の高台に有るのだが…
(そこも例に漏れず、心霊スポットw←)

カナダ軍が空襲に参加したのは、カナダ政府が『戦勝国として参加した』という、
単に『実績づくり』の為だけに無理矢理アメリカの空母に乗せて貰ったらしい。

…結局『政府の御都合主義』で死なねばならんのは、現場の人間。

戦死者を靖国に祀るか、勲章を与えるかの違いは有れど、
政府の御都合によって扱われるのは西洋も東洋も変わらぬものらしい。(苦笑)

…虚しい。

そのカナダ人大尉のパイロットさんには、哀悼の念を感じるが…

当時、女川湾に在泊し、撃沈されたのは。
記録に依れば、駆逐艦よりも更に小型の、
僅か排水量1000トンにも満たぬ海防艦『天草』『稲木』の2隻。
(しかも戦後、再浮揚出来る程度の損傷。)

当時の日本海軍の装備・技量から考えれば、言っちゃあ悪いが『まぐれ当たり』で撃ち落とされた様なもの。


我輩も武士として、総ての戦士・武士には敬意を払うが………やはり、ただ政府に従い・使われるだけの立場は、やりきれない想いだと思う。

こうして今も、政府の御都合主義で派遣され、死なねばならん兵士・武士の皆様が数多く居るのだろう。


安倍首相始め、各国・紛争当事国の政府の人達は、
是非とも『歴史に学ぶ』事をして欲しいと思わざるを得ない。







因みに、爺さんの乗った峰風級駆逐艦は大正時代建造の旧式艦故か、
何隻かは最前線で撃沈される事無く後方で生き残り。

戦後、沈底させ。船体そのものを港の防波堤として利用された艦が幾つか有る。
『汐風』は女川港の防波堤に。

『沢風』は小名浜港の防波堤に。
(現在のアクアマリンふくしま、魚市場辺りの1号埠頭下にコンクリートに塗り固められてるらしい。)
…そしてその『沢風』の機関部、蒸気タービン本体は、今も三崎公園の屋外に展示されている。
(故に錆びが激しく、ちゃんと屋内で保存処置をして貰いたいものだ。)





最近流行りの『艦これ』で艦娘達を愛でるのも良いが………


やっぱり、こういう歴史的事実を知ってると複雑な思いは、ある。(苦笑)  


Posted by 黒猫伯爵 at 06:52Comments(2)

2014年08月14日

東北魔界紀行・出羽山伏編その5、山伏・天狗と縄文人そして霊。

また時間が開いてしまったが、前日記の続き。

いよいよ東北魔界紀行・出羽山伏編の完結編です。(笑)

この温海の温泉神社から高舘山辺りまで有名な心霊スポットが密集している。

白山島(白山神社)、高舘山(加茂坂トンネル)、油戸トンネル(荒倉山・荒倉神社)、鬼坂トンネル、加茂・石切神社、温海川ダム、五十川トンネル、神子沢隧道…

この僅か15Km圏内にこれ程集中し、心霊体験が数多く報告されてるのは尋常に非ず。

心霊体験という特性上、トンネルでの話が多いものの、
これ程の心霊スポット集中は偶然では無い。
…地図上にプロットしてみると、全て古来からの山岳信仰の聖地・霊山の麓である。

古来の山岳信仰=祖霊信仰という事を考えれば、霊が集まって来ても不思議では無い。

つまり、このエリアは蜂子皇子が羽黒系修験道を開く以前から、
縄文時代からの一大聖地・聖域だったのである!!!



と、同時に。

この数多くの心霊体験は、おそらく現代に限った話では有るまい。
…それこそ古代、縄文時代から連綿と有った筈だ。

此処、山形南部〜新潟北部〜福島北部に掛けての朝日連峰は、縄文人達が数多く住んでいたのだ。
(奥三面縄文遺跡も、このエリア。)

然るに、縄文人達は、それを当然の事と受け止めて一緒に暮らして居たのだ。

『生ける者も、死せる者も共に暮らす』社会として。(勿論その中には自然界の動物、精霊も含まれるだろう。)
…その、死せる者の代弁者として、『口寄せ』をする『イタコ』や『カミサマ』を社会に内包しながら。


【生ける者も、死せる者も共に暮らす社会】


この点を、後に流入して来た大和人には理解不能・概念の範疇に無かった思想だったのだろう。

大和人は、むしろ死せる者は『鬼(鬼籍)・怨霊』として恐れ、穢れとして遠ざけた。

だからこそ、その『死せる者』と共に暮らす先住民、縄文人も又、
大和人から見たら『鬼』そのものに見えた事だろう。

その為、その鬼が入って来る事を拒む為の関所を作った。
…それが温海温泉から少し南側に位置する『念珠ヶ関』。
(この他、『白河の関』と『勿来の関』。特に勿来の関は『来る勿れ』という意味だそうな。)

つまり、この関所より外、北側は『鬼が棲む処』、即ち『魔界』と大和人は考えたのだ。
(日記タイトルのオチが此処に!!笑)
そして『鬼』は、関所を越えて『来る勿れ』、と。

面白い事に。
この『念珠ヶ関』のすぐ近くに『日本国』という山が有る。(笑)
やはり此処が当時の『国境線』であり、東北地方は大和国とは別の国だったのだ。



さて…


今回の現地リサーチ後、改めて手元の資料等の解析を進めた処、
山岳信仰に絡む内容が次から次にポンポンと面白い様に出て来た。
(これぞ天の配剤、神のおぼし召しか??…我輩の様な悪魔の口から、そーゆー事を言うのは可笑しいが。大苦笑)


修験道と言えば山伏。山伏と言えば天狗…という関係性が有るが。

或る記述に依れば『天狗』には幾タイプかの系統が有るそうな。

1、天地の精霊・山の精霊・樹木の精霊が凝固したもの。
(自然霊タイプ)

2、神代の先住民の族長などが化生したもの。
(祖霊タイプ。アイヌの『エカシ』タイプか。)

3、修行を積んだ神官・僧侶・修験者などが化生したもの。
(超能力者タイプ。一般的な天狗のイメージ?)

4、烏・熊・狼・鷲・鹿・猪などの鳥獣が化生したもの。
(動物霊タイプ。所謂、妖怪・猫又と同じ様な『付喪神』か?)

5、人間の霊魂が化生したもの。
(死せる者の霊。所謂、幽霊??)

等々。

1と2は完全に縄文人の信仰体系の物だし、
4に至っては縄文人やアイヌ、マタギの『熊信仰』、そして東北の民俗芸能に多い『鹿舞い』に見られる様な『鹿信仰(言い換えれば『角』信仰)』。
…なるほど、古代・縄文時代からの信仰体系の上に密教の解釈を取り入れた修験道が成立し受け入れられ、熊野神社が東北に多いのが納得出来る。

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Posted by 黒猫伯爵 at 10:20Comments(0)

2014年08月05日

東北魔界紀行・出羽山伏編その4、『温泉神社と熊野神社』

さてさて、間が開いてしまったが先日の続き。

もう1ヶ所、念珠ヶ関から北上する事、車で約10分弱。
温海温泉の中に有る神社だ。

先ずは『温泉神社』。

現在は温海温泉の朝市の広場に新しく神社が建てられてているが、
元は別の場所に有り、その起源は諸説有るらしい。
…大同年間(807年)創建という説に従えば、これまた弘法大師が訪れた年代とピタリ一致するが、
おそらくそれ以前から祀られていたのでは無いか。

吹き出る湯を祀る…という事は。
蜂子皇子が湯殿山も含めた出羽三山を開く以前は、
むしろ此処が湯殿山権現…『旧・湯殿山神社』だった可能性も否定出来ない。



そこから歩いてすぐの場所に『熊野神社』が有る。
…由来に依れば、白鳳元年(1254年)、役の小角の神託により創建された…と有るが。

この由来書きはおかしい。
役の小角と言えば、700年代の人物だ。
これは、役の小角では無く、役の行者と書くべき処では無いか??

或いは、本当に役の小角が創建に関わっているので有れば、年代の記録が間違っている。

どっちなのだろう??


…ただ少なくとも。
この場所もやはり、温海岳頂上に本殿が有り、
今居る麓に遥拝殿が有る形式。
つまり山体そのものが御神体で、山伏が修行の為に行き来したであろう事は間違いない。

しかも、目の前を温海川が流れている……という事は。

おそらく、この温海川を『三途の川』に見立てて、
対岸から温海川を越えて(=三途の川、即ち『死』)→熊野神社境内に入る(=死後の世界、仏の世界)という意味を持たせていたのだろう。

つまり修験者とは、現世・今生と死後の世界・仏の世界を、生きながらに行き来する者。
(そういう意味では、死者の霊の代弁者である『イタコ』や、生きながら土中入定する『即身仏』と概念的には近いかも知れない。)

そして熊野神社が有る山こそが、死者の霊が至る『霊場』であり、仏の世界………という概念の『祖霊信仰』。

縄文時代から続く『祖霊信仰』を色濃く反映しているのでは無いか。



此処で一息。



実はこの熊野神社。

バラ園が併設されていて、無料で色々なバラを愛でる事が出来る。
それ故、何回も訪れてる場所なのだが…

今回改めて、境内を詳しく回ってみると。

このバラ園は、元々『奉納相撲』をする場所で、現在は円形の噴水が有る場所に昔は土俵が設えて有ったそうな。
又、バラが植えられて居る段々畑は、昔はその観客席。

うーん、何故、奉納相撲が廃れてしまったのだろう。

それにしても、『相撲は神事』だったというのが良く分かる。
…余談だが『天狗の技比べ』という伝承も残ってる地方が有り、それを描いた図も奉納されてる寺も有る。

力士と天狗が、山伏という点で一致するとは。(笑)


奥の方には登山口(昔は山伏が歩いた??)も有る。

半ば朽ちた鳥居(山中とは言え、海から近く塩分による腐食が早い様だ。)が幾つも並んでる奥には、幾多もの墓石。
…地域住民の墓地だ。
墓石は他所と変わらないが、やはり神社の境内に墓地が有り、仏像も祀られているなど、
神仏習合時代の形態を残している。



境内には他にも石碑が幾つか建ってて、松尾芭蕉を記念する物、植林事業の功績を伝える物、戦没者を慰霊する物…


その中で、驚くべき石碑が有った!!

『 熊 澤 大 人 嘉 碑 』

……!!!

熊澤ァァァ!?Σ( ̄□ ̄;)

真っ先に頭に浮かんだのは、戦前に『南朝の後胤』を名乗った熊澤寛道…俗に『熊澤天皇』と呼ばれる人物だ。

この石碑で讃えられてる人物と、熊澤天皇は全くの別人と思われるが……少なくとも同姓であり、神社に関係すると言う点で一致する。

尚、この石碑に彫られた文字は、充分に読み取れ無かった。
(石碑自体の高さも有り、上の方の文字が見えない。)

……くっ!!こりゃー熊野神社の歴史をもっと勉強して出直さにゃ……

読み取れた部分から分かった事は、此処で顕彰されている熊澤氏とは。
…熊野神社の司教として、近代に於いて熊野神社(全国の熊野神社系列全体)の再興に尽力し、多大な貢献をした人物らしい。

それだけ、多くの人達に慕われ、神社界・神道に影響力を持った人物。

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Posted by 黒猫伯爵 at 06:52Comments(0)

2014年08月01日

東北魔界紀行・出羽山伏編その3、『加茂』

更に前日記の続き。

山形・鶴岡の『由良』が、京・丹後に有る『由良』と関係するならば。

鶴岡の由良から少し北に、車で10分弱の場所に有る『加茂』も、
京都の『鴨川(賀茂)』に関係あるのカモ??(爆)

…駄洒落を言ってる場合では無い。
思い付きの当てずっぽうだが、理由が無い訳でも無い。

加茂港は小規模ながら入江の天然の良港で、現在も漁港として機能している。
古代からの日本海交易ルートに於いても重要な港だった筈だ。

地勢的にも、遮光器土偶で有名な縄文時代の『亀ヶ丘遺跡』周辺の地形と似ている。
(海を上がるとすぐ丘陵地で、その内陸側に広大な平地・湿地帯という)
…つまり縄文人が生活拠点を構えてた可能性が高い。

しかもそれは、港の方では無く、港を見下ろせる山側に有る筈だ。

…ってな感じて、山勘頼り・全くのノープランで車を走らす。

加茂と言えば、クラゲ水族館として有名な、加茂水族館!!!(笑)
しかも、つい最近、新築で建て直したばかり!!!
…寄って行きたい欲望をグッと堪えて。(苦笑)
加茂港から山越えの国道112号を鶴岡市街地方向へ。

途中、加茂坂トンネル手前で旧道と思われる方向に左折。
『高館山』に続く道路らしいが、程無く途中から閉鎖されていて、この先は廃道になった様だ。

その閉鎖された地点で、藪に埋もれた小さな鳥居を発見!!ビンゴかっ!!
近付いてみると石碑も有る。
…えー、なになに。

『鐵 門 上 人』

……!!!

即身仏か!!!Σ( ̄□ ̄;)
湯殿山に祀られてる、鉄門海上人の事かしら。
…此処、高館山で土中入場したのか…
(何年か後で掘り出し、湯殿山に即身仏として祀ったのか。)
本体は湯殿山に移ったとは言え、この荒れ放題にされているのは些か寂しいものだな。

思わず手を合わせる。


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Posted by 黒猫伯爵 at 10:04Comments(0)