2009年06月13日

アテルイ伝説。(帝都空爆篇)

さて、昨日の日記の続き。

では、阿廷流為が居た当時の状勢を分析しよう。

我が宮城県北エリア・大崎平野中央部では、涌谷から砂金が産出されて奈良(平城京)へ運ばれ、
同時に木戸瓦窯遺跡から多賀城へ屋根瓦が運ばれるなど、
少なくとも蝦夷も(孚囚として)大和朝廷の影響下にあり軍事的には安定していたと思われる。

又、色麻町に有った瓦窯…
その地名も四釜地区からも瓦が多賀城及び加美方面へ運ばれていた様だが、
僅か2〜30km離れた地点は蝦夷の支配下(鳴子の鬼首、石巻の魔鬼山…現在の牧山。)で、
しばしば激しい戦闘が行われた伝承が残ってる。

朝廷側の記録でも田夷・山夷等の表記が有り、場所・部族での違いや、年代、朝廷側担当者によって状況にかなり変動が見られる。
(現在のイラク国内の状勢に似てる。)

その涌谷や木戸瓦窯遺跡から極く近い場所、
恵比須田遺跡から縄文時代の遮光器土偶が発見されている。

又、葬儀に於いても極く近年まで、縄文時代が起源と思われる風習が残っていた。(円形の場所に棺を安置して参列者が左回りをする風習。東北にしか無い。)

この、恵比須→夷(えびす)、つまり他民族の意味。

つまり大和朝廷の影響下では有ったが、文化を徹底的に破壊された…という訳でも無いという事だ。

因みに、七福神の恵比寿様…
コレは土着の神様とされるが…要は縄文時代のアラハバキが変化して取り込まれたモノだ。

恵比寿様は商売・交易の神様である事からして、
当時の蝦夷は幅広く交易も行っており、大和側との交易(一応、密貿易?/笑)が有ったのは容易に想像される。

…話が逸れた。

しかし、蝦夷と大和朝廷側が平和共存していたのか?

否、である!!

蝦夷側から、税(年貢)を納めるから、(大和人と同等の)平民として扱ってくれ…
との申し出が有った事も記録されているが、朝廷側から却下されている。

つまり、蝦夷側は税を納めるだけの生産余力が有り、場合によっては朝廷の支配下に入っても良いとさえ考えていたフシが有る。

…にも関わらず、朝廷側は固くなまでに拒否し、
平民より身分の低い孚囚、又は【夷敵】、即ち征服すべき他民族…としてしか対応しなかった…
という事である。

勿論、内裏と多賀城間には相当な距離が有り、
朝廷との連絡・意思疎通も決して充分とは言い難く、
在多賀城の将軍始め、役人の裁量が大きく物を言い、
それ故の不正も多かっただろう。


阿廷流為が戦ったのは、それらの事に対する抵抗であり、
民族自決、自主対等の為の戦いであった訳だ。

しかも、自ら開戦に踏切ったというより、
朝廷側の対応から止む無く始めさせられたのである。



Posted by 黒猫伯爵 at 12:20│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
アテルイ伝説。(帝都空爆篇)
    コメント(0)