2013年08月02日

悪魔の御幣、東北巡礼。

気づけばもう8月ですな。

先月、7月後半だけでも随分色々な場所に行きまして。

画像1枚目は石巻。
中瀬の自由の女神像(笑)です。
東日本大震災で津波の直撃を受けた場所。
奥に見える白くて丸っこい建物が石ノ森漫画館。
その横に見えるのは、いまだに解体されず放置されたままの造船所。
…2年以上経ってもこんなもんです。

そうそう!!
8/11(日)には、この自由の女神像の周囲で「石巻メガフェス」というイベントが有るみたいです!!
ライヴや屋台も有るらしいので、行ける方は是非♪♪

で、翌日。

今度は寒河江に。(画像2枚目)

寒河江の地名は奈良時代に相模国からの移住者によって付けられたらしい。
(相模の川に似てる→さがの江→寒河江)

地形から見ると広大な平地が広がり、川からの水利も良く稲作に適した地勢ではある。
…逆に先住民、エミシは少ない土地だったろうね。
それは燃料や建材、多様な食材を得る山から離れてて。
縄文人系の職住近接という合理的スタイルからみたら不便だろう。

その為、稲作を中心とする大和人が入植して来ても生活圏がオーバーラップせずに済んだんじゃ無いかな。
先住民、エミシは、もっと南側の米沢の方に多く居た様だし。

…ちょっと疑問なのは、相模国からの移動ルートだ。
陸路で来たのか、それとも瀬戸内〜日本海経由で海路来たのか。

その翌日は更に福島県へ。

川俣町は絹の産地として有名だが、
ここに養蚕やハタ織りを奈良から伝えたのが、やはり奈良時代の小手姫という伝承が有る。

ハタ織り…秦氏の系統なのか、それとも大和朝廷の権力争いで朝廷を追われた物部一族か。
(地元の豪族が、技術導入の為に招聘したのかも?)

寒河江といい川俣といい、やはり5〜6世紀に掛けて弥生系の大和人が来た様だ。

ここから少し南側、二本松市には東和町が有る。(画像3枚目)

…奇妙な事に、宮城県と岩手県にも同じく「東和町」が存在し、
しかも3つの町とも、周囲を山に囲まれた地形で、更に奥州街道の東側に存在するという不思議な共通点が有る。

一説には、大和国を追われた人達が住み着いたから東和だ…という説が有るが。

我輩の考える処では2つ可能性が有る。
…それは和=環、円卓会議であり、地域の部族長が集まる会議の場。
…もう1つは、和=我(わ)。自分達の祖霊神の居る場所という意味合いだ。



Posted by 黒猫伯爵 at 21:18│Comments(0)
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