2013年09月08日

ハタと考えた。

先日の事だが。

仙台市の荒井地区で、災害公営住宅地の造成に伴う発掘調査により、
弥生時代のハタ織りに使う木製道具が発見されたそうな。

これが実に興味深い。

荒井地区は元々低湿地帯で、桑の樹は育たない(桑は水捌けの良い土壌を好む)故に、養蚕・絹を織った物では無いだろう。
…となると湿地帯の植物繊維を使った織物の筈だが。
当該の発見された木製道具は極めて保存状態が良く、糸の跡も残ってたそうなので、詳しい分析結果を知りたいね。


弥生時代早期に、既に東北地方までハタ織りの技術が伝わってた事自体も驚く。
(縄文人も色々な植物を使って編物をしてたが。)
この時代…弥生時代と言っても、東北北部は続縄文期と呼ばれる時期だ。

仙台より南に位置する福島の川俣にハタ織りが伝わったのは、更に数百年後の奈良時代という伝承があり、
この川俣地区は中山間地で、桑の栽培に適した土地で、養蚕・絹の生産とハタ織りがワンセット。

何故、こう伝播年代が開くのか?
同じハタ織りと言っても、技術的な違いも興味深い。


さて、このハタ織りの道具が持ち込まれた弥生時代。

荒井地区は今でこそ美田地帯だが、当時は腰まで沈む様な低湿地帯。たびたび増水にも見舞われた事だろう。
確かに稲作に適する土地かも知れないが、移住して来た弥生人の苦労が偲ばれる。(苦笑)

縄文人は荒井地区から数キロ離れた丘陵地の岩切や東仙台、或いは西多賀方面に多く住んでた。
勿論、漁労(鮒や鰌などの淡水魚や蜆、田螺など)の為に湿地帯や沿岸部まで来てたにせよ、
湿地帯で稲作を始めた弥生人と直接は生活圏が重ならず、両者は比較的良好な関係だったと思われる。

…むしろ、縄文人の方は「何でわざわざ湿地帯で苦労して稲作してんだよ、馬鹿馬鹿しい(苦笑)。」と、弥生人を見てたかも知れない。(笑)

弥生人が織った織物と、縄文人が得た山の幸や木材が、各々互いに無い物を補う良好な補完関係・交易相手だったろう。
(荒井地区は低湿地帯で樹木も少なく、ハタ織りの道具も縄文人との交易で得た木材から作られたのかも知れない。)



それが、稲作経済が発展するにつれて、だんだん良好な補完関係が崩れ始めて。
弥生人による侵攻(軍事的では無くても、稲作経済による経済支配)になっていったのだろう。

荒井地区も割と海から近いし、多賀城も勿来も海に近い。弥生人は海伝いに上陸して来たのだろうか。



Posted by 黒猫伯爵 at 12:25│Comments(0)
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