2016年05月14日

東北魔界紀行〜『坊の墓』編〜

東北魔界紀行〜『坊の墓』編〜東北魔界紀行〜『坊の墓』編〜東北魔界紀行〜『坊の墓』編〜東北魔界紀行〜『坊の墓』編〜東北魔界紀行〜『坊の墓』編〜以前、ネット友から旧・古川市に『坊の墓』という謎の石碑群が有る…と情報を頂いてたので。
近くに行く機会が有り、リサーチしてみた。

確かに住宅地に囲まれた小さな空地の一角に多数の石碑が並んでいる。(隣はコンビニw)

石碑の前にはプラスチックの花立てが立てられているので、今でも参詣する人が居るのだろう。

その石碑の碑文をチェックする。主要な物を挙げると。

・庚申(寛政12年)
・一宮塔
・愛宕塔
・□峯山(※上部破損で、□に入る文字は不明。多分、金峯山かな。)
・龍神
・地蔵尊(大正9年)
・馬頭観音(嘉永年間)
・馬頭観音(昭和16年)
・大六天(嘉永4年)
・不動尊(文化13年)
・湯殿山供養塔(明治9年)
・雷神
・岩木山大権現(嘉永4年)
・舩玉神(明治11年)
・爲村中安全(明治15年)
・巳待供養
・その他、密教系と思われるが文字判別困難な石碑が複数。(文政年間、文化年間、明治15年の各年代建立。多分、高僧か即身仏を祀ったものであろう。)

これらを見る限り、お寺というよりは神社に近い。
神仏習合の修験道か密教の寺が有ったのだろう。

愛宕塔(愛宕山、愛宕権現)・岩木山大権現・湯殿山・□峯山(金峯山?)と、山岳信仰の山がズラリ並んでる。

建立時期から見ると、何期かに別れている様だ。

例えば密教の『大六天』と修験道の『岩木山大権現』が同じ年の建立だが、
この時期に天台宗かな?によって建立されたと考えられる。

又、『爲村中安全』(村中安全の為、の意。道祖神、又は塞の神に意味は近いか?)と、判別困難な密教系の石碑が同じ明治15年建立なので、
この時もやはり何らかの祈願・祈祷が行われたろう。


興味深いのは『雷神』と『龍神』である。
…結論から言えば、この雷神・龍神は地域の農民が、農業神として祀ったと考えられる。

雷の多い年は豊作…と言い伝えが有るので、雷神は特に稲作の神として祀られたので有ろう。

雷の雷光を『稲光(いなびかり)』とも呼び、やはり『稲』の字が入る。
…後に明神信仰(稲荷明神)が農民の間に広まったのも『稲』の字が関わる。

休題閑話。

『龍神』は勿論、水神。
…これまた稲作に必要な水を司る神であり、同時に水害を鎮める神。

この様に、かつてこの場所は地域の農民の篤い信仰・祈願の場所だった筈だ。


もうひとつ、注目すべきは『舩玉神』。
…これは船に宿る魂(=玉)・神の事。

この場所は海から遠い内陸部だが…昔は川船による船運が有ったので、川船の船頭達が祀ったものであろう。

この場所の近くに『江合川(北上川水系)』が有る事から、
米(年貢米)を積み出す船着き場も近くに有った筈だ。

この舩玉神の建立が明治11年だが、
北上川の川船による旅客輸送が昭和12年頃まで存在した記録が有るので、
同じ北上川水系の支流である江合川の船運も多分その年代まで有ったかも知れない。


尚、この場所で一番新しいのが昭和16年の馬頭観音である。

…おそらく農耕馬か、荷役用の馬を祀ったと考えられるが、
昭和16年と言えば、太平洋戦争開戦の年。
軍用馬として供出させられた馬の為だったかも知れない。


この様に、少なくとも…

昭和16年頃までは、確実に寺が存在した筈である。

それが何故無くなり、石碑だけが残されたのか…

この謎を解く鍵は、やはり『舩玉神』であろう。

当該地域は稲作が盛んで、その米を遠隔地(特に首都圏)へ運ぶ手段として川船が使われていたが。
国鉄の陸羽東線が開通し、米を輸送する手段が川船から鉄道にシフトしたが故に、
川船が衰退すると同時に、舩玉神を祀ったこの寺も衰退したのだろう。

そして次第に忘れ去られ、いつしか廃寺になり。
石碑だけが、当時の記憶を残しているだけになってしまったのだと思う。


かつて此処に存在した寺の寺号は、調べてみないと分からぬが…
少なくとも江戸期は神仏習合であり、明治政権下の神仏分離政策により、
神社では無く『寺』としての体裁で存続したのだろう。

しかし石碑を見る限り。
明治以降も農民・民衆の信仰は相変わらず神仏習合の信仰体系であった事が分かる。
…この場所に、日本神話に登場する神は一切祀られていないのだ。

この近所に『天照大神』が祀られた『荒雄神社』が建立されたのは、明治維新の後である。

つまり天照大神・日本神話というのは、朝廷や幕府、藩主クラスの人間達の物であり、
当時の農民・民衆にとっては、
謂わば『新興宗教』の様なもので有ったろう。

話が逸れた。


もうひとつの謎。
『坊の墓』の由来。

これも結論から言えば。
◆A説:坊さんの墓が有ったから
◆B説:元々は『坊の端(ぼうのはた)』と呼ばれていた
…という、2つの説が考えられる。

まずA説。
確かに石碑の中には『圓清海福性院上人』とも読める石碑が有る。
…『上人』とは僧の位で、しかも僧名に『海』が入るのは空海や天海、土中入場して即身仏になった鉄門海上人の様に、かなり高いレベルの密教僧。

だが…この場所に、その僧が埋葬されていたとは考え難い。
…他の石碑との整合性から考えればむしろ、分霊として祀っていたと考えられる。

その点では『墓』と呼ぶには違和感が有る。
…ましてや、当該地域の方言では坊さんの事を『オッサン(お師さん、の意味)』と呼ぶので、
僧の埋葬地であれば『オッサンの墓』になり、
『坊の墓』と呼ぶのは近年になって方言が薄れてからの呼び名ではないか。

そしてB説。
『坊』とは僧そのものを意味するのでは無く、
僧・行者が居住する『僧坊・宿坊』の意味ではないか?

…つまり、元々この場所には寺の宿坊が有り。
その建物の『端(はた)』だったから、『坊の端』と呼ばれた場所で。
それが次第に寺が廃寺になり宿坊が取り壊されて、『坊の墓』と掏り変わってしまったのではなかろうか。



どちらにせよ、『送り盆』の供養だけは現在も残っている様である。
(龍洞院には、何か由来を記した物が残っているかも。)



忘れてはならない・伝えるべき歴史は、此処にも有る。

この場所の石碑群は、今も静かに語りかけて来るのである。



合掌、拝礼。


Posted by 黒猫伯爵 at 10:25│Comments(0)
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