2017年01月25日

歴史の謎、崑峯寺と坂上田村麿呂。(東北魔界紀行〜崑岳編その2)

という訳で、前日記の続き。

我輩が行った当日は、山門の仁王像の手にワラジが掛けられていたが…どなたが奉納して行ったのでしょうね。
(現役の山伏さんか、はたまた地域の里の人間か…)

それは兎も角。
この崑峯寺。創建由来を紐解くと実に興味深い。

最初の草創は宝亀元年(770年)、当時の朝廷の城柵・多賀城に赴任していた、
鎮守府将軍・大伴駿河麿呂が白山神を祀ったのが起源とされる。

後に征東将軍・坂上田村麿呂が蝦夷のアテルイとの戦の後、
京都・清水寺より十一面観音を勧請し807年に観音堂を建立。

更に849年、天台宗・比叡山延暦寺の僧、第3世慈覚大師(円仁)が布教の為に堂宇を増築し、
無夷山・崑峯寺(むいさん・こんぽうじ)と改称…というのが伝承。



この770年の草創という年が、東北の歴史上、大事件の年でもある。

この年、770年の8月。
朝廷側に従い、俘夷となっていた蝦夷・宇漢米公宇屈波宇ら一族が朝廷側から離脱し、蝦夷側に帰郷するという事件が起きている。

宝亀元年という年号からも分かる通り、この年朝廷では天皇が崩御し改元された年。

鎮守府将軍・大伴駿河麿呂が白山神を祀った正確な日にちは特定出来ないが、
この宇屈波宇の蝦夷帰郷と、大きく関係が有ると考えられる。

…白山神は、同じ山岳信仰の系統でも、越の白山。
元々、蝦夷の山岳信仰の聖地に、他所から勧請された白山神が祀られる事に納得出来なかったのでは有るまいか?
(あくまで個人的な想像に過ぎないが…)

宇屈波宇は朝廷側の呼び掛けにも頑として応じず。
後年に朝廷側の城柵・桃生城の焼き討ちに発展している。
(桃生城は、この崑岳・崑峯寺からもさほど遠く無い。)

更にこの10年後。宝亀11年(780年)。

これまた朝廷側に従っていた蝦夷の伊治公砦麿呂が、伊治城(これまた崑岳と同じく宮城県北部の築館。)で朝廷の陸奥国按察使・紀広純を暗殺する事件が発生しているが…
この時、紀広純と同行していた道嶋大盾も殺害されたものの。
何故か1人、陸奥介(朝廷の役職)・大伴真綱だけが助命され、無事に多賀城へ帰されている。
…崑岳に白山神を勧請した大伴駿河麿呂の家系だ。
(この事件以前に大伴駿河麿呂は死去している。)

何故、大伴真綱だけ助命されたのか??理由はハッキリしない。
…考えるに、砦麿呂は大伴真綱に何か、朝廷に対するメッセージを託したとしか考えられないが…

朝廷側の記録には一切残っていない。
砦麿呂が託したメッセージを朝廷側が無視したものか、或いは朝廷側に不都合な事だったのか。


歴史に隠された謎である。

…この大伴氏。物部氏と並び、有力な古代氏族で、仏教を良く思わない氏族で、当時の朝廷では非主流派。
(出羽三山の開祖・蜂子皇子もまた、非主流派として朝廷を逐われた側。)

その大伴氏が、朝廷の重要な役職たる鎮守府将軍に任じられたのは何故か。
…仏教では無く、山岳信仰を奉じるからこそ、同じ山岳信仰の系統を奉じる蝦夷との仲介役を期待されての任命だったかも知れない。


大伴氏の本拠は、奈良の東南部の様で。
(修験道の本拠、金峯山も近いか?)
日本武尊の東国遠征に従った大伴武日の系統であるとされる一方で、
武烈天皇の後、越前から呼び寄せた継体天皇を皇位に推した氏族でもある。

…越前、白山信仰の本拠である。これも実に興味深い一致だ。

東北地方で白山信仰が広まったのは主に800年以降なので、
770年に勧請したというのは、かなり早期と言える。



この辺の歴史は、かなり古く謎に満ちているが…

おそらく、まだ朝廷という形が整う以前の時代に。

畿内地方の王と、越国の王が婚姻関係を結んだという事実が有ったからこそ、継体天皇が皇位に就けたのだろう。

同様な事を画策し、蝦夷の王と朝廷の天皇の間に婚姻関係を結ぼうと画策したのが、
大伴駿河麿呂が白山神を勧請した理由かも知れない。
(同様に、砦麿呂が大伴真綱を助命した理由かも知れない。)



さて、この崑峯寺が所在する地域。

小田郡とされ、日本初の金山で、奈良の大仏にも使用された金の産地、黄金山のすぐ隣である。
…という事は、古くから朝廷の勢力が侵出して来た地域という事だ。

縄文時代の遮光器土偶が完品として発掘された恵比須田遺跡も近い。
…朝廷側の記録には田夷・遠田公押人なる人物の記述も有る処から、稲作に従事する蝦夷が多く住む土地だったろう。
従って、崑岳は白山神が勧請される以前から、田夷の作神様・豊穣神として信仰を集めていたろう。

但し、遠田公押人の一族は稲作を営みながらも『田夷』という身分の扱いであり、
朝廷の平民・編戸として処遇される事は無かった様だ。

稲作自体はこの地に流入したのは6世紀中頃と考えられる。
従って稲作を始めた初代かも知れない。
…縄文時代末期に東北地方に到達した稲作は、その後の気候寒冷化により、数百年の間途絶えて。
再び東北に稲作がもたらされたのは6世紀以降なのだ。
(山形の寒河江や、最上地方・白川の伝承からも裏付けられる。)


この近傍、加護坊山という山には天武天皇が東叡山と称し、国家安楽寺を建立したとも言われ、
又、前期古墳時代の古墳も存在する様だ。



大伴駿河麿呂が祀った白山神の処に、仏教の十一面観音を勧請し神仏習合した坂上田村麿呂。

無夷山・崑峯寺と名付けた慈覚大師。
…彼は山形の山寺こと立石寺や、岩手の平泉・中尊寺の創建にも関わっている。
(中尊寺を再興し大伽藍を建立したのが奥州・藤原氏。)


東北の歴史は、実に深いベールの先に隠された、実に複雑でデリケートな部分が有る。


Posted by 黒猫伯爵 at 14:35│Comments(0)
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歴史の謎、崑峯寺と坂上田村麿呂。(東北魔界紀行〜崑岳編その2)
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