スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by だてBLOG運営事務局 at

2013年10月19日

悪魔の御幣巡礼。(アートな街・土沢篇)

ちょっと日にちが経ってしまったが、先日の土沢アート&クラフトマーケットに来て下さった皆様、有り難う御座いました★


初日は、またしても雨に祟られましたが、(晴れるっつった天気予報はドコ行ったァァァァァア!!Σ ̄□ ̄#)
二日目はバッチリ晴天。


今回、例の黒い御幣やら鬼の面やらを立てて、例のオカザリ(切り紙)を垂らすという…












!!

(笑)


黒い御幣の東北巡礼ツアー(笑)の写真も展示しましたし。

ぁ、勿論、いつもの販売グッズも一通り出しましたけどね。(笑)
…珍しく、ミニサイズの黒御幣をお買い上げ下さった方が複数名居るんだけど…

何に使うんだろ??<●><●>←おぃ!www

魔除け??呪い??


前回から顔を覚えられたらしく?
「隣に居た、お洋服作ってる御姉様方は今回居ないんですか?」と聞かれたり。
…ぬーん、残念。(´ω`)今回、OPHELIAさんは出て無いのよ…



それは兎も角。


土沢の街は、落ち着いた良い街ですね〜(^ω^)
隠居生活するにはもってこい♪♪←(誉めてんのかソレww)
…冗談は\(゚□\≡/□゚)/置いといて。
今回出展した場所の隣が「割烹・小桜」さんという、
詩人・高村光太郎先生ゆかりのお店!!!
(画像一枚目)
写真の右の階段の奥が、その別館というか、離れの御座敷なんでしょうね。
凄く雰囲気の良い建物でした。

こーゆークラシックな割烹って、減ったからなぁ〜
…いつかは、こーゆークラシックな割烹で、時間を気にせずゆったり一献やりたいものですな♪♪(^ω^)

越後屋ぁ〜、お主も悪よのぅ〜、とか言いながら←(違うだろ!!www)

…さういう大人にワタシハナリタヒ←


そうそう。
JR釜石線の土沢駅。
…今は無人駅だが、元は岩手軽便鉄道で、これまた宮沢賢治先生の「銀河鉄道の夜」の始発駅モデルだったとか。
(画像二枚目)

この町出身の画家、萬鉄五郎先生といい、何気に世界的な有名人にゆかりが有るのなー…

静かな街だけど(全国チェーンのファミレスもコンビニも無いし。ぁ、コンビニは有るか。)、
所々に雰囲気の良い建物や風景が有って、
山から流れて来る小さな水路が民家の裏を流れてたり。

また今度は、普段の平日に撮影に来ようと思う。



今回も色々な作家さんが出展してて面白かったですねー。

ウチが出展した一角は、木工屋さんに陶芸屋さん、サンキャッチャー(クリスタル??)屋さんと………ウチの怪しい雑貨&祭壇だろ。(笑)
カオス!/(^q^)\←


他の処を覗いてみると…
板金屋さん(金属板で折り鶴!!!)は居るわ、津軽こぎん刺し職人は居るわ、書家は居るわ、イラストレーターは居るわ、竹細工職人は居るわ…
ショートムービー上映や、シタール(インドの弦楽器)奏者やアイリッシュハープ奏者の演奏会は有るわ、チェーンソーアートの実演は有るわ、
食もアートという事で、蕎麦屋、団子屋も。

…凄いわコレ。

なかでも、思わず笑ってしまったのが…

フェイクスイーツのマカロン………と思いきや、南部せんべいwwww思わず吹いたwwwwwそー来たかwwwww流石、岩手wwww←(フェイクスイーツ作ってる人は、分かると思うwww)


で、トドメは、二日目の終わり間際…


河 童 様 降 臨 w w w

…河童の被り物で歩いてた人も居まして。
いったい何事だったのでしょうか?(笑)
某コ●●レ街歩き、の人達じゃ無いよな、アレ…



そして、土沢の猿舘酒店限定・犬のラベルの日本酒、
文字通り、犬カップ=ワンカップをお土産に買って〆ると。(爆笑)
(画像三枚目)


コレ、オチぃぃぃぃい?!←(爆)  


Posted by 黒猫伯爵 at 07:41Comments(0)

2013年10月11日

【告知】土澤アート&クラフトマーケットに出展します★

明日・明後日は、岩手県花巻市東和町の土澤アート&クラフトマーケットに出展します★

東和町の土澤商店街と、萬鉄五郎美術館前を使った屋外イベントで、開催時間帯は10〜16時です。
…合併前の旧東和町の方なんで、花巻の中心市街地からは少し離れてるんですけどね。(苦笑)
釜石道の東和インターや、道の駅・東和から、すぐ近くです。

そういえば、同じ日に道の駅・東和では「とうわ産業まつり」も開催されるそうです♪♪
…隣りの日帰り温泉(フォルクローロ東和)も、良いお湯ですぞ(笑)

萬鉄五郎美術館を観てみるも良し、雨ニモマケズ…の、宮沢賢治の足跡を辿って街歩きするも良し。

明日・明後日は天気も良さそうなので、ぜひ花巻へ♪♪♪



それと、もう一個告知!!
来週10/20(日)は、雨が降らなければ、宮城県登米市佐沼の秋まつり(登米市役所近く・中江公園)に出展★

さらに来月、11/2(土)は←※土曜日開催なので留意!!
仙台市で開催のゴシック&ロリィタ系展示即売会「Douce×Decadence」に出展します★


という訳で、皆様遊びに来ておくんなまし♪♪←
  


Posted by 黒猫伯爵 at 10:44Comments(0)

2013年10月08日

会津藩・若松城と庄内藩・鶴ヶ岡城。(その四・戰も商売篇)

また間が開いてしまったが、前日記の続き。

庄内藩・鶴ヶ岡城!

幕末の戊辰戦争では新政府軍に降服したのは会津藩よりも後で、
しかも悲惨な籠城戦どころか、領内で新政府軍との戦闘すら無かった藩。
…更には戦後、会津藩の様に家名廃絶・斗南藩転封という事も無く、明治新政府下でそのまま酒田県となった藩。


この違いは何であろうか?

結論から言えば、「外交ルート」の有無が大きなウェイトを占める気がする。

庄内藩の菅実秀と薩摩の西郷隆盛の間には外交ルートが有った様だし、
何より江戸期(それ以前から)を通じて、日本海の海運によって京・大坂とは関係が深かった。

即ち商人を通じて情報も入って来た筈。
…前日記でも触れた「情報戦」。
何もスパイ活動だけが情報戦では無い。現代でも情報戦の7割は一般に公開された情報を基にした「分析」が重要と言われる。
…その点、早期に新政府軍側に投降した秋田・久保田藩や新発田藩、弘前藩なども、
日本海の海運ルート上で、商人を通じて京の情勢が伝わり、不利な情勢を読み取って投降したのではないか?
(何故、庄内藩は最後まで戦ったか?というのはリーダーの考え方の違いと思われる。)


さて…

もし仮に。新政府軍が庄内に攻め込んで来たら、どうなってたか?
…架空戦記風に書くと(笑)
長岡藩を落とした新政府軍は、投降した新発田藩兵を含めて村上藩方面から湯田川を経て鶴岡城下へ。
続いて主力部隊が海路、加茂港か鼠ヶ関港、又は酒田港から上陸。
鶴ヶ丘城周辺は全くの平地で、防衛は濠と土塁が主なので若松城の様な籠城戦は難く。
戦闘は機動力(騎馬戦力)・火力に依存する。

もし我輩が戦術を立てるならば。

騎馬戦力を後方の鳥海山の麓に置き、新政府軍が庄内平野に差し掛かった時点で騎馬戦力を海岸沿いに大きく迂回・南下させ、新政府軍の側面を突くと同時に海路上陸して来る主力部隊との合流を阻止する…かな。
(海路上陸して来る新政府軍部隊には、歩兵が主で騎馬戦力は無い。)

現実的には庄内藩にそれだけの騎馬戦力は無いし、
織田軍が鉄砲で武田軍の騎馬部隊を破った様に、
火力の差は、いかんともし難い。
いずれ勝算は少ないだろう。


忘れる処だったが…
庄内藩については、破綻同然だった藩主・酒井家を財政支援した豪商・本間家のバックアップも大きい。

余談だが、本間家の本間光信は若い頃に、戊辰戦争で「鬼玄藩」と勇名を馳せた酒井玄藩…その酒井家・江戸藩邸に逗留している。
…本間家は政商か?(笑)

冗談は兎も角。
本間家は米相場で財を成し、その財力で藩を支援し、更に救民施策や公益事業にも出資した。
…その財力の基になった米や紅花。
これは内陸の山形・最上氏や天童・織田氏の所領で作られたが、
米や紅花はあくまで商品作物・換金作物で、当時の農民の主食はソバや雑穀だったという。
…途上国でプランテーションを経営した西洋諸国と同じ。(苦笑)
その山形城下では近江商人が支店を出して、店で働く人間も近江から単身赴任していたという。
これも現代の多国籍商社と同じ。(苦笑)

現代の自由競争市場経済の企業感覚と何ら変わらぬ。

…本間氏も現代で言えば、金融先物取引で大儲けした様なパターンだが、
現代の強欲な資本家の豚共と違うのは、その点。
商売で得た利益を公益分配している事。
(本間家自体は贅沢な暮らしもしてたが。)

その本間家が有った酒田湊だが、藩の奉行所は有ったものの、
「酒田三十六人衆」と呼ばれる有力商人達が行政を仕切る自治都市だった。
(現代的に言えば、自由貿易特区みたいなモンか。笑)
…しかもその三十六人衆の中に入るには、商人達の互選で、
町の公共事業に出資出来る潤沢な財力と、倫理的な人間性を求められ、
逆に財力を失えば即、三十六人衆の地位も失ったという。
…かなり民主的なやり方と言える。

この辺。自分の金儲けばかりやって社会還元を怠る現代の資本家の豚共は、
爪の垢でも煎じて見習ってほしいもんだ。(苦笑)

この江戸と現代の資本家・商人の違いは何だろうか?

江戸期の商人は、民衆が豊かになれば商人も儲かるという感覚があった故に、利益の社会還元・救民施策にも出資したが、
現代の資本家・企業には、その感覚が薄れたのでは無いか?
…資本家・商人が民衆の実生活から解離してしまった。

このシリーズ日記で何度も述べた様に、やはり上層と下層の解離が現代の諸問題の背景に有る。


…とりあえず、この日記シリーズは此処まで。
蝦夷館の話は回を改めて書こうと思う。

長文、ご清読有り難う。  


Posted by 黒猫伯爵 at 12:35Comments(0)

2013年10月03日

会津藩・若松城と庄内藩・鶴ヶ岡城。(その参・鴉天狗篇)

また間が開いてしまったが、更に前日記の続き。

戊辰戦争でも「侍の戦い方」に拘らずゲリラ戦法や夜襲などで新政府軍側に多大な打撃を与え、「鴉組」と恐れられた部隊も有った。

仙台藩の細谷十太夫という隊長に率いられた、漁師やヤクザ者数十名の部隊で、背中にカラス(三本脚のヤタ鴉)をあしらった装束で揃えていた。
(この点、正規の武士・兵士では無いが、後の国際規約、ジュネーブ条約に照らしても「民兵」の要件を満たしてる。)

この三本脚の鴉。修験道の行者・山伏(役小角や鴉天狗)を意味するとも、太陽神の化身(大日如来の化身とも、天照の遣いとも)を意味するとも言われる。
…隊長の細谷は、元々藩の隠密であったとされ、当然の如く山伏とも接点が深かったろう。

この鴉に懲りたのか、(苦笑)明治新政府は国家神道を立てて神仏分離・廃仏棄釈を強引に推し進め、一時、修験道も存続の危機に瀕したという。
(これが後の第二次大戦、強力な国家統制と軍国主義の遠因とも言える。)
…歴史を見ても織田信長時代の延暦寺、第二次大戦時の中国で道教の寺に支持された馬賊、現代のイスラム系ゲリラ組織…
反体制側が宗教をバックボーンにする例も多く、権力側が宗教側を恐れ抑えようとするのは古今東西、変わらぬらしい。(苦笑)

旧ソ連も同じ。
…帝政ロシア時代の宗教や価値観を否定し、新しい「ソ連人」を作ろうとした。

この部分で明治新政府は、江戸幕府の宗教・価値観を否定して文明開化の明治人を作ろうとした訳で、構図としてはソ連の共産革命に近いだろう。


余談になるが…

山岳籠城戦・ゲリラ戦で数倍以上の敵を打ち負かせた例は有る。
それは八世紀の蝦夷と大和朝廷軍との戦い。

勿論、まだ鉄砲・火器の無い時代の戦なので事情は異なるものの、
数多くの点で現代の軍事教書的にも教訓となる部分が多い。
…蝦夷と大和朝廷軍の詳細な戦争の経過は、又、別の機会に譲るが、
◆情報戦(敵情の収集・分析。これは蝦夷と大和の役人間での密貿易や、大和側の浮囚となった同族の蝦夷から得られた。)
◆適切な布陣
◆部隊間の連携・相互支援
◆士気・兵站の維持
…これらの点で、蝦夷軍は実に適切に行動してる。
逆に大和朝廷軍側は、蝦夷の数倍〜十数倍の兵力を擁しながら、
これらの要素が全くと言って良い程に欠けていた。

戦争に勝つ側も負ける側も、(時の運に左右されるとは言え)やはりそれなりの理由が有る。


休題閑話。

その蝦夷軍のアテルイは充分な継戦能力を保ちながら、最終的には大和朝廷軍の坂上田村麻麿に投降した。
(その理由・タイミングについては色々有れど…)
これも蝦夷軍と坂上田村麻麿の間に、休戦を模索出来る「外交ルート」が有ったからに他ならぬ。
(田村麻麿の祖父、刈田麻麿は一時期、多賀城に赴任し蝦夷の各部族棟梁と接点が有った。)


…その点、会津藩に、新政府軍(特に長州)との間に、そういった「外交ルート」が無かったのか??と悔やまれる。

これが戦国時代ならば、当面の敵と、婚姻関係を結んだり養子縁組などで「外交ルート」を作れた。
(戦争になれば人質として足枷にもなるが。)

江戸も後期となれば、そういった武家同士の婚姻や養子縁組も、
格式や体面を重視して決められる事が殆んどで、
「外交ルート」としては、かなり形骸化していたとも言える。
(会津の松平容保も、美濃高須松平家からの養子で、地元出身では無い。…現代で言えば、「落下傘議員」みたいなモンか。苦笑)

籠城戦が有用たり得る場合は、外部勢力の支援が得られる場合か、有利な休戦条件を得られる場合だ。
(五稜郭に籠った柄本は前者・会津の場合は後者。)
…残念ながら会津の場合は、有利な休戦条件を得られる外交ルートを持ち得なかった。

…というよりも。
「侍の価値観」、至誠一徹だけでは、旧来の価値観を否定する事を旨とする新政府軍側には、話が通じなかった…と言わざるを得ない。


…とまあ、会津藩の話は、ひとまず此処まで。(長げぇよ!!)



で、若松城を観に行った翌日。
今度は庄内藩・鶴ヶ岡城!!

鶴ヶ岡城は、今では「鶴岡公園」として桜の名所にもなってますし、明治期の洋館も周囲に点在する街。

鶴ヶ岡城も周囲に山が無い平原の平城で、青龍寺川・内川に囲まれてる位置。

この庄内藩は、かなり特異とも言える藩で、
政治は鶴岡・経済は酒田湊で、当時の酒田湊は奉行所が置かれていたものの、
実際の行政は「酒田三十六人衆」と呼ばれる有力商人達の民主的な自治都市だったという。



…この話の続きは、また次の日記で!!  


Posted by 黒猫伯爵 at 12:20Comments(0)