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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2013年09月30日

会津藩・若松城と庄内藩・鶴ヶ岡城(その弐、暗闘篇)

前日記から時間が開いてしまったが…

前日記の続き。

さて、前日記で旧幕府軍側が「侍の戦い方」(正面で戦う事を是とする)に固執して戦術の柔軟性を欠いた…と指摘したが。

これは、実はその後の第二次大戦まで、いや、現代にまで引き摺ってる。
…この背景には、武家社会の階級構造、上士と郷士、上の者が絶対という身分意識と、現場との認識の齟齬という部分が有るが、
取り敢えずこの階級構造の問題は後に回すとして、実例で見てみよう。



第二次大戦中、日本海軍は、非常に優秀な潜水艦を持ちながら、
輸送船に対する攻撃・通商破壊作戦を積極的にやらなかった。

これは日本軍部の体質として、輜重兵(補給部隊)を一段低く、軽く見る風潮が有り、
(武家社会の身分意識の名残か?)
輸送船を沈めても「手柄にならない」という感覚が有ったとされる。

他国、Uボートを持ったドイツも輸送船に対する通商破壊作戦を展開したし、
アメリカの潜水艦も日本の輸送船を数多く沈めた。
…ところが日本の軍部参謀は、相変わらず「侍の戦い方」に固執したのか(刀を持たない輸送船に対する)通商破壊作戦は行わず、
戦局が悪化してからは、極めて無謀な、ガダルカナルに向けての潜水艦を使った輸送作戦を現場に指示し、押し付けた。

…戦後、GHQのアメリカ軍参謀が「日本の将兵は勇敢だったが、高級参謀は無能だった。」と評したそうだが、
いかに優秀・精強な兵士を抱えていても、用兵を誤ると勝てない…という教訓であろう。

勿論、当時の日本軍部としては、国力差や軍縮条約で艦艇の保有制限で不利な状況下に有ったから、
通商破壊作戦よりも正面作戦にばかり目が向いた点も有るだろう。



話を会津に戻して。

会津の松平容保公は、良い人物では有ったが…
…やはり武家社会の身分意識、中央支配体制の意識に囚われ、脱け出せなかったのはやむを得ないだろう。

当時の武家社会では、同じ武士階級でも上士と郷士(地元採用)の間には歴然とした階級格差が有った。

そもそも当時の藩主・領主は、幕府(中央政府)によって転封・改易される立場の人間であった故、
どうしても中央の意向に従わざるを得ない立場だった。
それは転封の際に、藩主と共に移住する上士(上級武士)も同じ。
…元からの地元民たる郷士(下級武士)と認識に齟齬が生じるのは当然の事。


会津の場合は。

郷士や一般庶民の願いとして「会津(の人民や生活)を守って欲しい」と思っていたが、
それが上の方では「幕府を守る事は、会津を守る事。」という中央の視点に摺り替わってしまった。


一方の新政府側だが…

京都での鳥羽伏見の戦い辺りまでは、そういった中央支配層同士の権力闘争という側面が強く、
それ以降の薩長土肥の藩で下級武士が主導権を握り、新政府を作って行く訳だが…
その過程で、天皇という権威を利用してしまったが為に、
逆に天皇を頂点とする中央支配型の身分体制に飲み込まれてしまった。
(その意味で、日本では真の民主化革命は一度も起きていない。)


天皇を頂点とする新政府の身分体制の中で、成り上がった下級武士が、今度は上級者として旧幕府軍側を追討する立場になった時。
何故、会津が恭順を申し出ても休戦しなかったか??
何故、執拗なまでに追討し続けたか…という点で、
ひとつの可能性を指摘せねばならない。

…それは、関東以北には、日本神話や天皇に関する重要な拠点が無い事。
従って、全く遠慮介錯無しに破壊・追討を指示出来たのでは無いか。
(もしこれが逆の九州追討の指示だったら、天孫降臨の地を攻める事になり、躊躇したのでは無いか。)

日本は単一民族、と口先だけでは言いながら、
その実、東北を蝦夷・蛮夷(異民族)と見倣して来た中央支配体制側の意識が深層に有ったのでは無いか。
(これは1980年代のサントリー会長の熊襲発言や、先日の経産省キャリアの東北の復興は不要発言など、現代まで続いてる気がする。)



そして、この中央支配体制の身分意識、上士と郷士の身分差感覚が、
現代の正社員と非正規労働者・大企業と下請け・中央と地方と言う関係性の背後・深層心理に刷り込まれている気がする。



さて、少し話を変えて。

戊辰戦争でも、そういった「侍の戦い方」に固執せず、
ゲリラ戦法で多大な戦果を挙げた「鴉組」という、漁師やヤクザ者を集めた部隊が有る。

これも実に参考になる、教訓を活かすべき事例だが、
この話は、次の日記で!!(←引っ張るなぁ〜、まだ庄内藩の話に着かんぞww)  


Posted by 黒猫伯爵 at 10:31Comments(0)

2013年09月28日

会津藩・若松城と庄内藩・鶴ヶ岡城、蝦夷館。(幕末激闘篇)

先日の現場、会津アピオ&鶴岡こぴあに来て下さった皆様、有り難う御座いました★

双方とも城下町。
…という事で、今回は現場入りの前に、チャリで町歩きをした訳で御座います。
今回は、その話を中心に進めて行こうと思う。



まず、会津若松。

某大河ドラマの影響ですかね、あちこちに八重の桜のアレが…(苦笑)
まぁ、盛り上がってるのは、お役所と商工会だけという(苦笑)、よくあるパターンみたいですが←

…意外に赤線地帯(笑)も有るな。やはり会津盆地一円の中心地で、温泉町も近い故か。
それと商店街のアーケードが他都市に比べても幅が広い。冬場の積雪を考慮してか?

そして肝心の、お城!!

一般的には「鶴ヶ城」と呼ばれているが、正確には「若松城」。
幕末の戊辰戦争で籠城戦になった城だから堅固な山城だと思ってたが…
実際に行ってみたら、実は背後に山を抱えているものの、城郭の主要部分は平地に有る平城だったのね。意外。

この平城に籠る籠城戦…というのは、戦略的には大きなミスだったと思う。
…むしろ若松城を防壁とし、背後の小田山に本陣を置き、平地での遅滞作戦・山地での遊撃ゲリラ作戦を展開すれば、
会津軍(旧幕府軍)側が、遥かに有利に戦えた筈。

…我輩だったら城下にトラップを仕込み、進軍して来た新政府軍もろとも若松城に火を放って小田山に退却し、その後ゲリラ戦…という選択肢を選ぶね。
しかも敵の新政府軍とは言え、兵員は各藩の寄せ集め。謀略工作で分断・自滅せしめる事も出来たかも知れぬ。
(通信手段の限られた当時では、適切な作戦は難しかったかも知れぬが。)
…敵の1/3は火力で減じ、1/3を情報戦で無力化すれば敵は自滅する、とは旧ソ連の軍事教書だ。

その場合でも、新政府軍との兵力差から考えて、越冬し翌春まで戦闘を継続出来たかは疑問だが、
少なくとも、あと二ヶ月。初雪の降る11月中旬までは確実に戦闘を継続出来たろうし、
寒冷地に対応出来ない新政府軍に対して、降雪のタイミングで休戦協定を結ぶ事も出来たのでは無いだろうか?

…実際には、山側に本陣を置いてゲリラ戦をやる場合でも、
食料や弾薬、居住区を事前に山側に用意して置く必要が有り、
戊辰戦争の経過を見ると、新政府軍の進攻スピードが速く、そういった準備の時間的余裕が無かった事も読み取れるが…


現実の史実では…

会津軍は平地の若松城に籠ってしまい、逆に背後の小田山は新政府軍に押さえられ、そこから大砲の砲弾を撃ち込まれてしまってる。
(「高所を取る」という軍事戦略の基本を会津軍は失念した。)
しかも一ヶ所に籠った事で、新政府軍の火力が集中して撃ち込まれた。
(これが山中のゲリラ戦ならば、新政府軍の火力も分散せざるを得ず、大砲を有効に使えなかったろう。)


この後。
戦線が北海道まで北上した函館戦線でも、旧幕府軍側が同じ様な誤ちを冒してしまってる。
…五稜郭に籠り、背後の箱館山に新政府軍の布陣を許してしまった事が、自らの首を絞めた。

但し、函館戦線の場合は…
旧幕府軍側とて、地理に不案内でアイヌ民衆の協力も得られず、
しかも格段に寒い北海道で山中に布陣してのゲリラ戦を続ける…というのは、いかに有利な戦法と言えども尚更、選択し難かったろうが…
(榎本は海軍だし、新撰組の土方とて温暖な関東の出身。)



…どうも、この辺は。
旧幕府軍側は「侍の戦い方」(正面の戦いを是とし、ゲリラ戦を良しとしない風潮)に固執し、戦術の柔軟性を欠いた感じがする。

そして何よりも!
戦争終結の方法、出口戦略無しで、いたずらに犠牲者ばかり増やした悲劇でも有る。

…これは現代の日本政府にまで続いてる。




ちと長くなったので、続きは次の日記で!←(まだ会津の話しか書いてねぇぇぇ!!)  


Posted by 黒猫伯爵 at 06:19Comments(0)

2013年09月09日

愛すれど、独占せず。

この処。立て続けに友人の皆様が「愛」について日記を書かれてるな〜。(やっぱり秋だからかしら?笑)

…なので我輩も便乗w←


現代の愛は、一夫一婦制に基づいた「世帯」の概念に縛られ過ぎてるんじゃ無かろうか?
…古代人は、もっと愛に寛容で自由だったんじゃ無いかと思ってしまう。


縄文時代の竪穴式住居をみてみると。
一戸が2〜7人程度の居住人数。
…決して大きな建物を建てる技術が無かった訳では無い。
数十人も寝れる様な大型の掘立式建物も建てていたのだ。(これはおそらく、村の共有・共同施設だったろう。)

にも関わらず、一戸当たりの居住人数が少なく、
一戸に一家・一血族が全員住んでたとは考えられない。

一血族が複数の住居に分かれて住んでた…というよりも。
現代の「家」の概念とは異なり、住居そのものが村社会での「役割別」にあてがわれてたのかも知れない。

例えば、赤ん坊の居る夫妻は3人用住居、狩猟Aチームは、チームのメンバー5〜6人が一緒に寝れる住居…という様に。

これはこれで、実に合理的な暮らし方だ。
…現代の様に、いくら家族だからと言っても、夜泣きする赤ん坊と働いてる成人と要介護の老人が、ひとつ屋根の下に暮らしてる方が、逆に不都合が多い。(苦笑)

結婚も、おそらく子育ての一時期を除けば、同居では無く別居婚の様な形だったろう。
…従って、子育ても一組の夫婦や世帯で行うのでは無く、
子供は村の「共有財産」として、村の社会全体で育てていたのだろう。
(この点は現代社会よりも優れてたと思う。)

従って、結婚という概念も、現代の様な厳格な物では無く。
どちらかと言えばフリーな関係に近かったと思うし、それが故に「夜這い」も生活の中に問題無く内包されて来たのだろう。

…その結果として生まれて来た赤ん坊も、誰の子供であろうが村の共有財産として、分け隔て無く皆で育てられたのだから。

此処で勘違いしてはならぬ点は。
…幾らフリーな男女関係でも、一方的な事はしなかった・出来なかった、という事だ。
何故なら、相手の人間も、村社会の役割の一翼を担う「共有財産」であり尊重される。
決して1人が独占私有出来る存在では無いからだ。
(同時に、そこには1人1人が村の役割を担ってるという個人の自立感と共有・公益概念が必要。)


こういった古代の生活様式を「野蛮だ」とは言えないだろう。


この古代の男女関係を野蛮だとして、厳格な一夫一婦制、「世帯」に押し込めて来たのがカトリックでは無いかと思う。

この「世帯」化によって、女性は「社会の共有財産」から夫の「私有財産」に変化してしまった。
父権による財産の「独占」。


現代社会の諸問題は、この父権による財産の「独占」を許してしまってる点が根本的な処に有る。
…富の独占による、貧富の格差。権力独占による不満。
一部の人間に「独占」されるが故に、同時に「妬み」も生まれるという不幸。
独占された富を強制的に分配しようとすると、強大な権限が必要で、結局その権限・権力も次第に独占化される。


そう考えると、やはりカトリックの考え方では駄目なんじゃ無いかと。

…キリスト教が悪いと言う訳では無いよ。

多分、キリスト本人は逆に、「独占」に対して闘ってたと思う。
…当時の支配者による富や権力の「独占」を打破する為に、世界は神の物という概念を定着させようとした。(一部の特権者の所有物では無い、と。)

それが時代を経るに従って、一夫多妻制の独占を許さない→一夫一婦制になり、
実に皮肉な事だが、一夫一婦制が夫による妻の「独占」に繋がる・父権の強大化・独占化に繋がってしまったのでは無いか。
…この辺は。厳格な「世帯」という形にした方が、支配者側・権力者側からしてみたら都合が良い・支配し易いという側面も有ったろう。


独占を許さない、という点では。
イスラム世界では富む者から貧しい者への「喜捨」という習慣が有るし、
仏教で言えば、欲を捨て去る(=独占しない)という面で、
実は、キリストもマホメットもブッタも、やり方は違えど同じ事を目指してたのかも知れない。




愛すれど、独占せず。

これが一番かな〜


「独占しない」という事を宣言すると、物凄く気分的に楽になるよ〜(笑)

お金も物も、そして愛も独占しない。
他人を妬んだり恨んだりする必要も無くなる。

ま、金銭的に貧乏な事は変わらないけど。(苦笑)
  


Posted by 黒猫伯爵 at 10:55Comments(0)

2013年09月08日

ハタと考えた。

先日の事だが。

仙台市の荒井地区で、災害公営住宅地の造成に伴う発掘調査により、
弥生時代のハタ織りに使う木製道具が発見されたそうな。

これが実に興味深い。

荒井地区は元々低湿地帯で、桑の樹は育たない(桑は水捌けの良い土壌を好む)故に、養蚕・絹を織った物では無いだろう。
…となると湿地帯の植物繊維を使った織物の筈だが。
当該の発見された木製道具は極めて保存状態が良く、糸の跡も残ってたそうなので、詳しい分析結果を知りたいね。


弥生時代早期に、既に東北地方までハタ織りの技術が伝わってた事自体も驚く。
(縄文人も色々な植物を使って編物をしてたが。)
この時代…弥生時代と言っても、東北北部は続縄文期と呼ばれる時期だ。

仙台より南に位置する福島の川俣にハタ織りが伝わったのは、更に数百年後の奈良時代という伝承があり、
この川俣地区は中山間地で、桑の栽培に適した土地で、養蚕・絹の生産とハタ織りがワンセット。

何故、こう伝播年代が開くのか?
同じハタ織りと言っても、技術的な違いも興味深い。


さて、このハタ織りの道具が持ち込まれた弥生時代。

荒井地区は今でこそ美田地帯だが、当時は腰まで沈む様な低湿地帯。たびたび増水にも見舞われた事だろう。
確かに稲作に適する土地かも知れないが、移住して来た弥生人の苦労が偲ばれる。(苦笑)

縄文人は荒井地区から数キロ離れた丘陵地の岩切や東仙台、或いは西多賀方面に多く住んでた。
勿論、漁労(鮒や鰌などの淡水魚や蜆、田螺など)の為に湿地帯や沿岸部まで来てたにせよ、
湿地帯で稲作を始めた弥生人と直接は生活圏が重ならず、両者は比較的良好な関係だったと思われる。

…むしろ、縄文人の方は「何でわざわざ湿地帯で苦労して稲作してんだよ、馬鹿馬鹿しい(苦笑)。」と、弥生人を見てたかも知れない。(笑)

弥生人が織った織物と、縄文人が得た山の幸や木材が、各々互いに無い物を補う良好な補完関係・交易相手だったろう。
(荒井地区は低湿地帯で樹木も少なく、ハタ織りの道具も縄文人との交易で得た木材から作られたのかも知れない。)



それが、稲作経済が発展するにつれて、だんだん良好な補完関係が崩れ始めて。
弥生人による侵攻(軍事的では無くても、稲作経済による経済支配)になっていったのだろう。

荒井地区も割と海から近いし、多賀城も勿来も海に近い。弥生人は海伝いに上陸して来たのだろうか。  


Posted by 黒猫伯爵 at 12:25Comments(0)

2013年09月06日

悪魔の御幣巡礼。(秋田・風神篇)

先日9/1の秋田JAビルの現場に来て下さった皆様、有り難う御座いました!!

心配した程の雨も降らず。
台風崩れのねっとりした雲の隙間から、高くなった秋の青空が覗く天気でしたが、
今回も気持ちよく国道7号の海岸線ドライブでした〜←(おぃ!)
…今シーズンは、ババヘラが減ってないか??←(そこかぃw)


現場では、以前営業していた「黒猫貴族の館」を知ってるという方にも声を掛けられまして。
…ホントに有り難う御座います。
2010年で閉店してるし、週一回ペースで二年間しか営業して無かったんですけどね。(笑)
今でも覚えてくれてる人が居るのは嬉しい事です。
(また、あーゆーお店を作れれば良いんだけどね〜)


今回、現場撤収した後で秋田ポートタワー・セリオンに行って来ましたよ。
…ここも既に築20年ですか。
20周年記念で、上の展望台まで無料で行けたので登ってみました。(初めて。笑)
つい最近、このセリオンも「道の駅」に指定されましたが…無理矢理過ぎるだろwww
(大館空港も道の駅になったり。苦笑)

それにしても、ここの建物もガラガラで、有効活用されてるとは言えないな。(無惨)
バブル期の設計だし、仙台港のアクセルといい、大阪南港のATCといい、
バブル期のウォーターフロント開発物件は、ことごとく屍類々だなぁ…


休題閑話。


セリオンの、全面ガラス張りで近代的な建物と黒い御幣でパチリ★



…更に無惨だったのは…

「ここに観光秋田があります」と書いて有るのに、実はガランドウの廃墟になってる建物www←(in仁賀保)
何も無ぇぢゃねーかwww
…いや笑えないぞ。


秋田県にも色々良い物が有る!!
…宣伝が下手なだけだ。



あとは、海岸線の風力発電の風車と黒い御幣でパチリ★
近代的な風力発電も風神頼み←(違)

日本海側の酒田〜能代に掛けては、偏西風が安定してて、風力発電の適地でしたから、(冬場の落雷・着雪という問題も有ったが)
震災・原発事故以前から随分と風車が有ったんですけど、
例の再生エネルギー買取り法案以降、更に新規の風力発電が次々に建てられてるね。


…やりゃあ出来るんだよ、原発廃止・再生可能エネルギーの普及なんて。

この様に海岸に風車が有るなら、隣に大型プールを作って、揚水発電も組み合わせれば、
風力発電の弱点である不安定性もカバー出来るのに。  


Posted by 黒猫伯爵 at 11:32Comments(0)